一粒の麦 ボランティアの始まり

Written by Mr.Dev

始めに少女がやってきた

 1997年3月某日、ロスアンゼルス日系新聞に掲載された一人の少女の写真が目に留りました。東京から、8才になる少女、(物部美祐紀ちゃん)が、一億円という募金を集め、心臓移植のためUCLA大学病院にやってくるという記事でした。

 当時、日本ではまだ脳死移植法は成立しておらず、国会では脳死を巡って討論が続いていました。そんな理由があったからなのか、アメリカ現地のメディアもこの少女の話題を取り上げ、ラジオでは毎日のように病状が報道されました。
一方その舞台裏では、家族の友人が掲載したネット上の呼びかけに10人ほどの有志が集まり、朝から晩まで食事の炊き出しから、通訳までを無償で手伝っていました。
 十分なボランティアがいると知ったものの、少女の容態が悪化しているというニュースに心が落ちつかず、夫ジョージと私は病院を訪問することにしました。
「ご両親は今さっきどこかへ出ていかれたんですよ。」「さあ、いつもどっていらっしゃるか…」
 集中治療室の前まで行ったものの、中から出てきた看護士にこのように伝えられ、やむなく病院を後にした翌日、ラジオは少女が大量出血で早朝この世を去ったことを報道しました。
 生きる最後の希望を託してアメリカまでやってきた少女は、ドナー(臓器提供者)に巡り会うことなく、逝ってしまったのです。97年4月13日のことでした。

地に落ちて実がなった

 全ては空しく終わったかのように思えました。でも、少女の提供した角膜から光を得た方がいました。同じ年の10月にはまるで、少女の死が国会議員たちの心を動かしたかの様に、日本脳死移植法が成立し、移植の場合に限り、脳死が認められるようになりました。使う事なく残った募金は、少女の渡航移植を支援したトリオジャパンを通し、「みゆきハウス」と名づけられたアパートの確保として利用され、移植法成立後もやってくる移植患者家族に住まいを提供することになりました。(みゆきハウスは約10年間何組もの渡航移植家族に利用されました。)そして、私たち夫婦は少女のご両親と対面し、渡航移植者支援を勧められたのです。

 少女の家族を支援した元祖ボランティアたちは、時と共に去っていきましたが、脳死移植法成立後も、渡航移植家族は後を絶たずにやってきました。
 当時アダルトスクールと呼ばれる成人学校英語教師だったジョージは、依然大きな助けが必要なことを悟ると、彼の日本人生徒にボランティアを呼びかけました。
 最初は「何かあると、会社や夫に迷惑かけるから。」と尻込みした生徒さんたちでしたが、それが、「きみたちは何のために英語を勉強しているんだ。取るばかりで、与えることはないのか?今こそ習った英語を使うときだ。」と叱咤激励されると、彼女たちは勇気をふるい出し、挙手。こうして、新ボランティアグループが誕生しました。
 誰かが抜けると代わりの誰かが与えられ、一人の少女との出会いから生まれた名前も支援金もない有志の集まりは11年間移植家族のお世話をし続け、ついに2008年、より多くの方へより質の高い奉仕を目指し、非営利団体「一粒の麦」として生まれ変わりました。